2012.05.17(Thu)
先日のピアーズ・モーガンの番組でかわされたジョーパパのしつけについてのお話。
http://jaxon22.blog135.fc2.com/blog-entry-875.html
ちょうど読んでいたジャー兄の本にそのことがちょっと詳しく出ていたので、うpしておきます。
今回のうp部分は、まだそこまで到達していません。今日のところは、キャサママのお話。
このチャプターは、2300 Jackson Street とのタイトルがつけられており、彼らがまだ、ジャクソン5になる前、小さな家で、11人の家族が暮らしていたころのお話です。
全ては、私たちが、キッチンのシンク周りで歌っていたあの日が始まりでした。
夕食後、私たちは、洗う→乾かす→重ねる→片付けるという煩わしい作業を、週ごとにペアを替え行うことに決めました。その真ん中にエプロンを着け泡だらけの手をした母が立っていました。彼女は、いつも口笛を吹くか、歌を歌いました。私たちに、彼女と一緒に歌いたいと思わせたのは、「Cotton Fields」でした。それは、ブルースミュージシャンであるリード・ベリーによる古い奴隷の曲でした。このヒット曲は、彼女の心に響きました。彼女のルーツがアラバマのユーフォーラにあったからです。そこで彼女は、1930年5月にケティ・スクルーズとして生れました。
彼女の祖父母は、その当時「the Cotton State」と呼ばれていた場所で、綿を育てる農民でした。そして、彼女の曽祖父は、スクルーズと呼ばれたアラバマの家族の奴隷でした。この祖先もまた、歌が得意で、人々は、谷を通して教会から響く彼の歌声を聴くことが出来ました。彼女の父、パパ・プリンスもまた、歌が得意でした。私たちがキッチンで聴いた歌声は、彼女の祖先から受け継いだもので、教会の聖歌隊で身につけたものだということが出来ます。彼女は、バプテストとして育てられました。素晴らしい歌声は、家系なのだと、私たちは教えられました。私の父方の祖父、サミュエル・ジャクソンは、教師であり、いつも「Sing Low, Sweet Chariot」をほとんど完璧近くに演奏する校長でした。しかし、彼もまた、教会でのコーラスを飾る「美しい高音」の持ち主でした。母は、高校で、クラリネットとピアノを演奏しました。そしてジョセフは、ギターを演奏しました。
1949年に私たちの両親は出会い、彼らのそれぞれのDNAは、私たちの音楽的遺産に対して、何らかの種類のスーパー遺伝子を作るために結合したに違いありません。それは、偶然の誕生ではありません。母は、私たちに断言しました。それは、神様の贈りものでした。あるいは、後にマイケルがそれを示したように「神様から授かった歌とダンスの結合」でした。
私たちはみな、母の歌声が大好きでした。キッチンのシンクのところで立って歌い、彼女は、アラバマの地に思いを寄せていました。そして彼女は、決して音をはずすことが無く、その歌声は、私をゾクゾクさせました。彼女の歌声は、話をしている時のように、温かく、ソフトでスムーズでした。私たちは、白黒テレビが修理に出された時、楽しみのためにキッチンのシンクで歌い始めました。そしてある日、私は、母とハーモニーをすることを始めました。私は、5歳ぐらいでしたが、高いレベルでそれを行いました。彼女は、歌いながら、驚きをもって微笑み、私を見下ろしました。すでに私の兄たち、ティトとジャッキー、そして姉のリビーは、彼女と一緒にコーラスをしていました。マイケルは赤ちゃんで、オムツをつけてヨチヨチと歩いていました。しかし、皿が片付けられ、シンクがきれいにされると、彼女は座り、彼を抱いてあやし、彼のために子守唄を歌いました。「Cotton Fields」は、私の歌うことへの始まりであり、マイケルの子守唄でした。
オムツをつけたマイケルが、私の記憶している最初の彼です。私は、彼が生れた時や母が彼と一緒に戻ってきた時を覚えていません。新しい誕生は、私たちの家族において、大きな出来事ではありませんでした。私が、彼のオムツを替え始めたのは、5歳のときでした。それは、9人の子供がいる家族であるために、私たちはみんなが手を貸し、出来る限り母を助けることでした。
マイケルは、超無限のエネルギーと好奇心を持って生れてきました。もし私たちの誰かが、彼から一瞬でも目を離したら、彼は、テーブルの下やベッドの下に這って行ってしまいました。ソファで、彼のグショグショになったオムツを替えることは、濡れた魚を捕まえようとするかのようでした。身をくねらせ、キックして、ひっくり返って。オムツを安全ピンで留める術は、どんな大人にとっても試練でした。5歳の私にとっては、言うまでもなく、リビー、ジャッキーは、私のレスキューとなりました。マイケルは、異常に長く、細い指をしていました。その指は、私の親指を握り、大きなクリクリとしたあどけない目は、「ねえ兄さん、僕は、兄さんを困らせて楽しんでいるんだよ」と、言っていました。けれども私が見る限り、彼は世話を必要とする弟でした。私たちは全員、お互いの世話をすることを教え込まれていました。しかし、私は、初めから彼に対しての保護意識を感じていました。多分それは、私が大声で尋ねられる言葉が「マイケルは何処?」「マイケルは大丈夫?」「マイケルは着替えさせた?」だったからでした。「うん、母さん、僕たちはそれをやったよ。彼はここにいるよ。」僕たちは、誰かが叫びました。心配しないで。マイケルは大丈夫だよ。マイケルは、大丈夫だよ。
私たちの母方の祖母、ママ・マーサは、石鹸で泡だらけになったバケツサイズの桶で赤ん坊だったときの私たちを入浴させたものでした。腕を高く揚げ、顔をしかめて、桶の中に立っているマイケルを、私は見ました。彼は、足の指の間から耳の後ろまで徹底的に洗われていました。私たちはいつも、清潔で、ウィルスに勝たなければなりませんでした。私たちは、歩いたり、話したりする前に、このことを教え込まれたのと思います。清潔を保つために、カスティール石鹸、そしてその粗い泡に勝るものはありませんでした。石鹸の泡を塗り、激しくゴシゴシ洗いなさい。母は、清潔さについて、きちんとしていて、清潔に見えることについて、口うるさかったです。全てがただ清潔でなくてはならないわけではなく、清潔に見えなくてはなりませんでした。
ウィルスは、見えないモンスターとしてイメージさせられ、病気に導くものだと、私たちは教えられました。それは、他の人々が運んでくるものです。それは、大気中に、路上に、表面にいます。私たちは、常に、侵略の脅威の下にいると感じさせられました。私たちの一人が、くしゃみをしたり、咳をしたりすればいつでも、キャスターオイルが登場しました。私たち全員は、感染を寄せ付けないようにするためにスプーン1杯を与えられました。私たちは、ほとんどウィルスノイローゼの脅威と共に育ち、それが何故だったかを理解することは難しくないと言うことにおいて、マイケル、ラトーヤ、ジャネット、そして私自身を代弁することが出来ます。
歌い始める前、キッチンで、最初に言われました。「私たちは、キレイな水で洗いあげます。キレイな水で!」それから「あなたたちが我慢できる範囲で、もっとも熱いお湯とたくさんの泡を使いなさい。」それぞれの皿が幾重にも重なり、キーキーと音を立て、それぞれのグラスは、すすがれ、乾かされ、水滴が残っていないかどうかを確かめるために持ち上げ、光を透かされました。もし、ひとつでもそれが見つかれば、もう一度、やってください。
外から戻ってくると、私たちは、汚染除去をしなければなりませんでした。母の口からでる最初の言葉は、「手は洗った?手を洗いに行きなさい。」でした。もし、彼女が数秒以内に、蛇口から水が流れるのを聞かなかったら、トラブルになりました。朝、学校へ行く前、衛生点検は、いつも同じでした。「顔を洗った?足は洗った?指の間は?肘は?」厳しいチェックがありました。アルコールをちょっとつけられた綿棒で、首の後ろをこすられました。もし、それがグレイになったら、私たちは、十分清潔ではありませんでした。「ちゃんと洗い直しなさい。」もし、私たちが、チョコレートケーキやクッキーが欲しかったら、私たちは、手を点検させられる可能性もありました。「だけど、前に洗ったよ。」私は、時々、抗議をしました。「ジャーメイン、ドアノブに触れて、出て行ったでしょう。もう一度、洗いに行きなさい!」
服は、決して、2日続きで着せられることはなく、清潔で、アイロンがかけられていなければなりませんでした。家族の誰も、シワやシミがついた服を着て外を歩くことはありませんでした。6歳までに、私たちは、全員、洗濯を手伝うことを教えられました。これは、多くの子供たち、可能性のある大混乱をチェックするのに役立った完璧な規律に不可欠なことでした。
2007年、私がUKのBig Brother house に参加した時、私が、ハウスメイトに食事の準備をする前に手を洗ったかどうかを尋ね、いつもウィルスに対してどんなに警戒していたかを、みんなはからかいました。私の妻、ハリマは、驚きませんでした。彼女は、私を「Germaphobe(ウィルスを嫌う人)」と呼びます。私は、それを否定できません。今日に至るまで、私は、公共トイレでドアノブに触ったことはありません。何故なら、どんなに多くの人たちが、手を洗わないかを知っているからです。私は、公共の階段やエスカレーターの手摺りに触りません。私は、車にガソリンを入れるとき、ガスポンプの引き金を持つために、ハンカチかティッシュを使います。私は、ホテルで、テレビのリモコンを使う前に、それをアルコールで拭きます。私は、全ての表面からの接触汚染に敏感です。
マイケルもまったく同じでした。彼は、ファンが彼に近づくことが出来た頃、サインをする時、他の人のペンを使うことについてさえ心配しました。しかし、彼の気掛かりは、主に大気中のウィルスの中で呼吸をすることに向けられました。人々は、外科用のマスクをつけることを馬鹿にしました。彼が整形手術を隠していたという憶測がありました。そして、マスクを引き合いに出した記事を見たとき、それは、「マイケルが健康について脅威を引き起こしていた」と言って、笑いました。彼は病気になることを怖れていた。それが全てだったからです。そんな時、彼は、何か病気に罹っているとか、免疫力が下がっているとか、感じたでしょう。彼は、私のように、生涯、ウィルスに対して警戒していました。少なくとも、それが外科用マスクを身に着け始めた原因でした。後に私は、それは、彼が「隠れる」ことを可能にしたファッションアクセサリーのひとつになったと思います。それは、自分が出来るほんの少しのプライバシーを守るものを何でもやってみたいと思う男にとって小さな盾でした。
チャプター2 2300 Jackson Street より あらすじ
ジャー兄がすっごく清潔好きで潔癖症だというのは、以前、ハリマのツイートでみたことがあります。お部屋の掃除からアイロン掛けから、全て自分でやら無いと気がすまないのだとか・・・(^^)
きっと、世の中の主婦の方からは、「羨ましい・・・」ってため息が聞こえそうですwww
お掃除はともかく、アイロン掛けって本当にいやな仕事ですよね!
マイケルの子守唄でもあったリード・ベリーの「Cotton Fields」
http://jaxon22.blog135.fc2.com/blog-entry-875.html
ちょうど読んでいたジャー兄の本にそのことがちょっと詳しく出ていたので、うpしておきます。
今回のうp部分は、まだそこまで到達していません。今日のところは、キャサママのお話。
このチャプターは、2300 Jackson Street とのタイトルがつけられており、彼らがまだ、ジャクソン5になる前、小さな家で、11人の家族が暮らしていたころのお話です。
![]() | You Are Not Alone: Michael: Through a Brother's Eyes (2011/09/01) Jermaine Jackson 商品詳細を見る |
全ては、私たちが、キッチンのシンク周りで歌っていたあの日が始まりでした。
夕食後、私たちは、洗う→乾かす→重ねる→片付けるという煩わしい作業を、週ごとにペアを替え行うことに決めました。その真ん中にエプロンを着け泡だらけの手をした母が立っていました。彼女は、いつも口笛を吹くか、歌を歌いました。私たちに、彼女と一緒に歌いたいと思わせたのは、「Cotton Fields」でした。それは、ブルースミュージシャンであるリード・ベリーによる古い奴隷の曲でした。このヒット曲は、彼女の心に響きました。彼女のルーツがアラバマのユーフォーラにあったからです。そこで彼女は、1930年5月にケティ・スクルーズとして生れました。
彼女の祖父母は、その当時「the Cotton State」と呼ばれていた場所で、綿を育てる農民でした。そして、彼女の曽祖父は、スクルーズと呼ばれたアラバマの家族の奴隷でした。この祖先もまた、歌が得意で、人々は、谷を通して教会から響く彼の歌声を聴くことが出来ました。彼女の父、パパ・プリンスもまた、歌が得意でした。私たちがキッチンで聴いた歌声は、彼女の祖先から受け継いだもので、教会の聖歌隊で身につけたものだということが出来ます。彼女は、バプテストとして育てられました。素晴らしい歌声は、家系なのだと、私たちは教えられました。私の父方の祖父、サミュエル・ジャクソンは、教師であり、いつも「Sing Low, Sweet Chariot」をほとんど完璧近くに演奏する校長でした。しかし、彼もまた、教会でのコーラスを飾る「美しい高音」の持ち主でした。母は、高校で、クラリネットとピアノを演奏しました。そしてジョセフは、ギターを演奏しました。
1949年に私たちの両親は出会い、彼らのそれぞれのDNAは、私たちの音楽的遺産に対して、何らかの種類のスーパー遺伝子を作るために結合したに違いありません。それは、偶然の誕生ではありません。母は、私たちに断言しました。それは、神様の贈りものでした。あるいは、後にマイケルがそれを示したように「神様から授かった歌とダンスの結合」でした。
私たちはみな、母の歌声が大好きでした。キッチンのシンクのところで立って歌い、彼女は、アラバマの地に思いを寄せていました。そして彼女は、決して音をはずすことが無く、その歌声は、私をゾクゾクさせました。彼女の歌声は、話をしている時のように、温かく、ソフトでスムーズでした。私たちは、白黒テレビが修理に出された時、楽しみのためにキッチンのシンクで歌い始めました。そしてある日、私は、母とハーモニーをすることを始めました。私は、5歳ぐらいでしたが、高いレベルでそれを行いました。彼女は、歌いながら、驚きをもって微笑み、私を見下ろしました。すでに私の兄たち、ティトとジャッキー、そして姉のリビーは、彼女と一緒にコーラスをしていました。マイケルは赤ちゃんで、オムツをつけてヨチヨチと歩いていました。しかし、皿が片付けられ、シンクがきれいにされると、彼女は座り、彼を抱いてあやし、彼のために子守唄を歌いました。「Cotton Fields」は、私の歌うことへの始まりであり、マイケルの子守唄でした。
オムツをつけたマイケルが、私の記憶している最初の彼です。私は、彼が生れた時や母が彼と一緒に戻ってきた時を覚えていません。新しい誕生は、私たちの家族において、大きな出来事ではありませんでした。私が、彼のオムツを替え始めたのは、5歳のときでした。それは、9人の子供がいる家族であるために、私たちはみんなが手を貸し、出来る限り母を助けることでした。
マイケルは、超無限のエネルギーと好奇心を持って生れてきました。もし私たちの誰かが、彼から一瞬でも目を離したら、彼は、テーブルの下やベッドの下に這って行ってしまいました。ソファで、彼のグショグショになったオムツを替えることは、濡れた魚を捕まえようとするかのようでした。身をくねらせ、キックして、ひっくり返って。オムツを安全ピンで留める術は、どんな大人にとっても試練でした。5歳の私にとっては、言うまでもなく、リビー、ジャッキーは、私のレスキューとなりました。マイケルは、異常に長く、細い指をしていました。その指は、私の親指を握り、大きなクリクリとしたあどけない目は、「ねえ兄さん、僕は、兄さんを困らせて楽しんでいるんだよ」と、言っていました。けれども私が見る限り、彼は世話を必要とする弟でした。私たちは全員、お互いの世話をすることを教え込まれていました。しかし、私は、初めから彼に対しての保護意識を感じていました。多分それは、私が大声で尋ねられる言葉が「マイケルは何処?」「マイケルは大丈夫?」「マイケルは着替えさせた?」だったからでした。「うん、母さん、僕たちはそれをやったよ。彼はここにいるよ。」僕たちは、誰かが叫びました。心配しないで。マイケルは大丈夫だよ。マイケルは、大丈夫だよ。
私たちの母方の祖母、ママ・マーサは、石鹸で泡だらけになったバケツサイズの桶で赤ん坊だったときの私たちを入浴させたものでした。腕を高く揚げ、顔をしかめて、桶の中に立っているマイケルを、私は見ました。彼は、足の指の間から耳の後ろまで徹底的に洗われていました。私たちはいつも、清潔で、ウィルスに勝たなければなりませんでした。私たちは、歩いたり、話したりする前に、このことを教え込まれたのと思います。清潔を保つために、カスティール石鹸、そしてその粗い泡に勝るものはありませんでした。石鹸の泡を塗り、激しくゴシゴシ洗いなさい。母は、清潔さについて、きちんとしていて、清潔に見えることについて、口うるさかったです。全てがただ清潔でなくてはならないわけではなく、清潔に見えなくてはなりませんでした。
ウィルスは、見えないモンスターとしてイメージさせられ、病気に導くものだと、私たちは教えられました。それは、他の人々が運んでくるものです。それは、大気中に、路上に、表面にいます。私たちは、常に、侵略の脅威の下にいると感じさせられました。私たちの一人が、くしゃみをしたり、咳をしたりすればいつでも、キャスターオイルが登場しました。私たち全員は、感染を寄せ付けないようにするためにスプーン1杯を与えられました。私たちは、ほとんどウィルスノイローゼの脅威と共に育ち、それが何故だったかを理解することは難しくないと言うことにおいて、マイケル、ラトーヤ、ジャネット、そして私自身を代弁することが出来ます。
歌い始める前、キッチンで、最初に言われました。「私たちは、キレイな水で洗いあげます。キレイな水で!」それから「あなたたちが我慢できる範囲で、もっとも熱いお湯とたくさんの泡を使いなさい。」それぞれの皿が幾重にも重なり、キーキーと音を立て、それぞれのグラスは、すすがれ、乾かされ、水滴が残っていないかどうかを確かめるために持ち上げ、光を透かされました。もし、ひとつでもそれが見つかれば、もう一度、やってください。
外から戻ってくると、私たちは、汚染除去をしなければなりませんでした。母の口からでる最初の言葉は、「手は洗った?手を洗いに行きなさい。」でした。もし、彼女が数秒以内に、蛇口から水が流れるのを聞かなかったら、トラブルになりました。朝、学校へ行く前、衛生点検は、いつも同じでした。「顔を洗った?足は洗った?指の間は?肘は?」厳しいチェックがありました。アルコールをちょっとつけられた綿棒で、首の後ろをこすられました。もし、それがグレイになったら、私たちは、十分清潔ではありませんでした。「ちゃんと洗い直しなさい。」もし、私たちが、チョコレートケーキやクッキーが欲しかったら、私たちは、手を点検させられる可能性もありました。「だけど、前に洗ったよ。」私は、時々、抗議をしました。「ジャーメイン、ドアノブに触れて、出て行ったでしょう。もう一度、洗いに行きなさい!」
服は、決して、2日続きで着せられることはなく、清潔で、アイロンがかけられていなければなりませんでした。家族の誰も、シワやシミがついた服を着て外を歩くことはありませんでした。6歳までに、私たちは、全員、洗濯を手伝うことを教えられました。これは、多くの子供たち、可能性のある大混乱をチェックするのに役立った完璧な規律に不可欠なことでした。
2007年、私がUKのBig Brother house に参加した時、私が、ハウスメイトに食事の準備をする前に手を洗ったかどうかを尋ね、いつもウィルスに対してどんなに警戒していたかを、みんなはからかいました。私の妻、ハリマは、驚きませんでした。彼女は、私を「Germaphobe(ウィルスを嫌う人)」と呼びます。私は、それを否定できません。今日に至るまで、私は、公共トイレでドアノブに触ったことはありません。何故なら、どんなに多くの人たちが、手を洗わないかを知っているからです。私は、公共の階段やエスカレーターの手摺りに触りません。私は、車にガソリンを入れるとき、ガスポンプの引き金を持つために、ハンカチかティッシュを使います。私は、ホテルで、テレビのリモコンを使う前に、それをアルコールで拭きます。私は、全ての表面からの接触汚染に敏感です。
マイケルもまったく同じでした。彼は、ファンが彼に近づくことが出来た頃、サインをする時、他の人のペンを使うことについてさえ心配しました。しかし、彼の気掛かりは、主に大気中のウィルスの中で呼吸をすることに向けられました。人々は、外科用のマスクをつけることを馬鹿にしました。彼が整形手術を隠していたという憶測がありました。そして、マスクを引き合いに出した記事を見たとき、それは、「マイケルが健康について脅威を引き起こしていた」と言って、笑いました。彼は病気になることを怖れていた。それが全てだったからです。そんな時、彼は、何か病気に罹っているとか、免疫力が下がっているとか、感じたでしょう。彼は、私のように、生涯、ウィルスに対して警戒していました。少なくとも、それが外科用マスクを身に着け始めた原因でした。後に私は、それは、彼が「隠れる」ことを可能にしたファッションアクセサリーのひとつになったと思います。それは、自分が出来るほんの少しのプライバシーを守るものを何でもやってみたいと思う男にとって小さな盾でした。
チャプター2 2300 Jackson Street より あらすじ
ジャー兄がすっごく清潔好きで潔癖症だというのは、以前、ハリマのツイートでみたことがあります。お部屋の掃除からアイロン掛けから、全て自分でやら無いと気がすまないのだとか・・・(^^)
きっと、世の中の主婦の方からは、「羨ましい・・・」ってため息が聞こえそうですwww
お掃除はともかく、アイロン掛けって本当にいやな仕事ですよね!
マイケルの子守唄でもあったリード・ベリーの「Cotton Fields」













